各組歯車の1回転に要する時間
組 |
秒単位 |
分/時/日/年単位 |
00 |
0.04秒 |
− |
01 |
0.16秒 |
− |
02 |
0.64秒 |
− |
03 |
2.56秒 |
− |
04 |
10.24秒 |
− |
05 |
40.96秒 |
− |
06 |
163.84秒 |
2.73分 |
07 |
655.36秒 |
10.9分 |
08 |
2,621.44秒 |
43.7分 |
09 |
10,485.76秒 |
2.9時間 |
10 |
41,943.04秒 |
11.7時間 |
11 |
167,772.16秒 |
1.9日 |
12 |
671,088.64秒 |
7.8日 |
13 |
2,684,354.56秒 |
31.1日 |
14 |
10,737,418.24秒 |
124.2日 |
15 |
42,949,672.96秒 |
1.4年 |
16 |
171,798,691.84秒 |
5.4年 |
17 |
687,194,767.36秒 |
21.8年 |
18 |
2,748,779,069.44秒 |
87.2年 |
19 |
10,995,116,277.76秒 |
348.7年 |
20 |
43,980,465,111.04秒 |
1,394.6年 |
21 |
175,921,860,444.16秒 |
5,578.4年 |
22 |
703,687,441,776.64秒 |
22,313.8 |
23 |
2,814,749,767,106.56秒 |
89,255.1年 |
24 |
11,258,999,068,426.24秒 |
357,020.5年 |
25 |
45,035,996,273,704.96秒 |
1,428,082.1年 |
26 |
180,143,985,094,819.84秒 |
5,712,328.2年 |
27 |
720,575,940,379,279.36秒 |
22,849,313.1年 |
28 |
2,882,303,761,517,117.44秒 |
91397252.7年 |
29 |
11,529,215,046,068,469.76秒 |
365,589,010.8年 |
30 |
46,116,860,184,273,879.04秒 |
1,462,356,043.4年 |
31 |
184,467,440,737,095,516.16秒 |
5,849,424,173.6年 |
32 |
737,869,762,948,382,064.64秒 |
23,397,696,694.2年 |
33 |
2,951,479,051,793,528,258.56秒 |
93,590,786,776.8年 |
34 |
1,180,5916,207,174,113,034.24秒 |
374,363,147,107.2年 |
35 |
47,223,664,828,696,452,136.96秒 |
1,497,452,588,429.0年 |
36 |
188,894,659,314,785,808,547.84秒 |
5,989,810,353,715.9年 |
37 |
755,578,637,259,143,234,191.36秒 |
23,959,241,414,863.8年 |
左列の秒単位の時間を、把握しやすいよう最適な単位に変換し右列に配した。 |
|
生物学者の本川達雄は「動物はサイズによって、それぞれが感じている時間に対する感覚は異なる」と、述べている。ネズミの寿命は短いが、心拍は速く、活動のサイクルは短い。一方ゾウはその逆に寿命は長いが、心拍は遅く、活動のサイクルは長い。着目すべきは両者の一生涯の総心拍回数が、20億回とほぼ同一なことである。
「ゾウもネズミも一生を生ききった感覚は変わらないのではないか」と生物の時間感覚に対する疑問を本川達雄は投げかけている。これら寿命に差異のある異種間の両者に顔をつき合わさせ、言語などの現実的時間を必要とするコミュニケーションの機会を持たせたとする。両者の時間感覚において、隔たりは生まれないのであろうか。
私は多くの人間が日々の生活の中で感じている、体内時間の変化に着目した。鑑賞者が各組歯車のいずれを注視するかによって、鑑賞者の時間感覚の状態を把握できるとした。動物にかぎらない生物、長大な寿命の植物はもちろんのこと、果ては宇宙までも時間認識をもつ存在とするならば、可能な限りの長大な時間設定を行わなければならないと考えたのだ。ゆえに最大約24兆年という長大なスケールでの設定をおこなってみた。
(04)組と(05)組の各1回転における時間差は、約30秒である。次に(12)組、(13)組を同じように計算すると、3週間になる。この前者と後者を比較すると、一見して等間隔ではない。しかし、どちらの組に着目しても、始点に近い側の歯車の組と、その次の歯車の組との回転周期比率は4:1という関係においては、等間隔として捉えることができる。
仮に鶴や亀がおとぎ話の伝承どおり、長寿の生物であるとするならば、彼らの時間感覚は我々人間の時間感覚とは別次元にあると想像する。そして別次元にありながも等価である。
亀の寿命が約5578.4年、私たち人間の寿命を87.2年と仮定してみる。人間の一生涯、生物一個体として認識できる最大級の時間スケールである(18)組の歯車の1回転を見守ることになるであろう。ならば5578.4年生きられるとした亀はどうであろう。その亀の寿命を(21)組の1回転に当てはめてみることになるのではないか。私たちが感じる(17)から(18)の差と亀が感じる(20)から(21)の差は、一生というスケールに当てはめ、置き換えてみると同一のものとして考えても良いのではなかろうか。彼らにとっての5578.4(21)−1394.6(20)=4183.8年とは、私たち人間にとって87.2(18)−21.8(17)=65.4年に相当すると計算できる。この両者の客観的な差は自己の感覚という主観的な視点に立てばイコールで結ばれると私は考えている。ゆえに等間隔であるという解釈も成り立つのではないか。このような長寿命の生物から見て、私たち人間とは目まぐるしく動き回る存在なのであろうか。
彼らがその時間の流れを当然として受け入れているものとし、彼らに人間と同等の知能があり、言語体系を同じくしていると仮定した場合、人間のような寿命が短い生物とのコミュニケーションをとることが可能なのであろうか。時間感覚の相違により、会話が成立しないのではなかろうか。それぞれの寿命の長さに応じた時間感覚を、それぞれに与えたのだとするならば、神のおこないは公平と言えるだろう。
結果的には私の行為は物理的な条件下で可能な時間概念の極小値から極大値までを独断で定め、枠の中に押しこみ、時間の断片を切り取ったにすぎない。
|