デジタルの中でのアナログ回帰 (4)

                     結論

 超並列型コンピュータを発明したことで有名なダニー・ヒリスが一万年時計なるものを考案した。ヒリスはデジタルデータの存続性に見切りをつけ、物質世界に帰ってきた。フーコーの振り子の原理−自然発生的なエネルギーを利用するらしい。ヒリスは人類が滅んだ後も作動し続ける自立した存続性を目指している。問題は誰もその一万年時計を見る者が存在しない世界で、その時計が存在しているといえるのかどうかという、根元的な問題にかかっていると私は思う。
 一個体の生物として「訪れない明日のために」で提示した24兆年という時間概念の巨大さを把握することはできない。一個体の生物として自己の意識の中でしか、時間を把握することができないからである。ならばここで表した24兆年は無意味な時間概念であろうか。否、人類が積み重ねてきた歴史を、時間概念であると捉えるならば、受け継がれることによって認識する事ができる時間概念も存在するのだと私は考える。これは結果としての時間概念であるが、自らの死後も存続していくであろう未来において、その概念を把握することはできないのであろうか。
 「訪れない明日のために」にで示された(37)の23兆9592億41414863.8年で1回転(バックラッシによって不確定)するような、結果としての歯車の回転量を視覚として知覚するのは、人間もしくは24兆年という時間単位を把握できる存在があったとしても、同作品が現実世界の作品であることから、不可能であると思われる。コンセプト的な視点に立つと非常に短命な作品と言える。風化という物質としての寿命の限界を考えるならば、24兆年間存続は不可能であると断言する。
 私は現実世界での物理的制約から実現不可能に思われる構造体を、仮想現実の世界で視覚として見せることの可能性を見いだそうとした。デジタル・データという存在の非物質性は劣化の無いコピーを可能とし、ネットワークを通じてデータの分散配置が可能である。この劣化のないコピーと分散配置は、機構の存続性を現実世界と比較すれば高めてくれるに違いない。
 遠い未来に亘って「訪れるであろう明日のために」が存続していくためには、人類が「訪れるであろう明日のために」に対する価値感を持続しなければならない。時間概念をテーマにした私一連の作品のコンセプトに沿うものであれば、表現の形態は歯車に限らず、インターフェース等のあり方も、時代や地域によって、さまざまに変化していくことを許容したい。
 デジタル・データの消去はキー操作一つで行えてしまう、ある意味で脆い一面も持っているが、デジタル・データが物質性を超克し、意志さえあれば、永久に存続し得ることを証明したい。私は作品のコンセプトをインターネットを通じて広く公開する予定である。これによって世界中の人々の関心を集めることができれば、プログラム作成や、分散配置における協力を仰ぐことも可能かもしれない。それによってさらに魅力的な存在となり得る。遠い将来私の現実世界の作品が崩壊した後、「RIUE−S」が本来の「訪れるであろう明日のために」として、ネットワーク内に存続したならば、おそらく私の力ではなく、多くの人々の存続させようとする意志の結果にちがいない。長大な時間の中でのほんの一片を生きる私ができることは、存続の種を蒔くのみである。
 この現実世界をなにか別の形で表そうとするとき、有限な固形を使うことに無理が生じる。目に見えている形では、世界は測れないだろう。目に見えない所に繋いでいく他はあるまい。ネットワークの海へ・・・。“もしかしたらこの先にも更に延々と歯車は連なっていくかもしれない”と考えることに重大な意義を感じる。私はこの海に。無限の広がりを感じているのだ。
 デジタルの正確性と存続性をよりどころにして、他人の善意、あるいは興味に頼るアナログ的な手法を用いて広げていく。そして常に誰かがどこかで「RIUE-S」を見ていることが肝心なのである。誰も見ていないことは存在しないのと同義である。私のスタンスはあくまでも、それを見ることのできる存在があって初めて、在るとすることができるように思われてならない。コンピュータ自体人間が作りだした物である限り、そういった意味で存続性は低いかもしれないが、それは人間でなくてもかまわないのかもしれない。
 知覚可能で全ての事象を細分化し、究極的な発見としてしまうのはデジタル的思想である。そして現在の究極と思われる存在の中に何かを見ようとする試みこそがアナログ的思想ではないのか。未知なる存在を追い求める試みは喜びなのではないか。
 デジタルで割り切らない、割り切れないアナログ的視野が、新世界を切り開いてゆくと私は考えている。


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