デジタルの中でのアナログ回帰 (0)

                    序論

 アナログとデジタルという言葉を、それぞれどのように表現すれば、理解を深めることができるのか。私たちの肉眼で見ている現実世界の事象の変化をアナログとし、静止画の連続的かつ高速な繰り出しによって、擬似的に現実世界の事象の変化を投影している映画をデジタルと位置づけてみたい。
 現実世界の時間がとどまることがなく、断片としても抽出できないのに対して、映画が現実世界の時間流の一局面である限りなくゼロに迫った瞬間を静止画として抽出し、断片の集積として提示されたものだからである。連接するフィルムは視覚において類比的であるものの、時間の連続性、関連性を断絶された存在である。毎秒数十コマで静止画を切り替えることによって静を動に変換という視覚的錯覚を人間に与えている。撮影されたフィルムとフィルムとの間に存在していたはずの時間の欠落は何を意味するのか。
 人間の動体視力の限界以上の認識不能のものは不要としたのならば、映画の中にデジタル的思想の原点を見いだせるように思える。逆説的に我々人間の存在する現実世界を、現代における科学的視野では認識不能なほどの極小の時間の連綿、あるいは極大な時間の線、さらにこの線を無限とするならば円環として、アナログ的時間としたい。

 デジタルとは個を確立し、他の存在との差別化にある。個という存在を考えるとき、まず連想するのは私個人ではないか。だが個人の肉体も分子の集合体であり、分子は原子の集合体である。
 さらに近年、極小単位としてクォークの存在が、粒子加速実験によって証明されつつある。
 原子が現実世界では最小の単位と認知されていた常識が崩壊したのである。個なる存在の曖昧さを痛感させられ、現実世界は物質の組成において、どこまでもアナログ的ではないかと再認識させられるのだ。
 伊藤俊治はデジタル・イメージについて、「デジタル・データからそのつど再生される画像であり、モノとしての画像ではなく、パフォーマンスとしての画像であり、耐久性と個別性を備えた人工物として実現される画像ではなく、支持体の無い物理的な持続性の欠けた非物質的な現象としての画像」と評した。
 すなわちディスプレイ上の映像はデジタル・データから副次的に生成されたものである。コンピュータのモニター画面を叩き割っても、物としての絵を取り出すことが不可能であることは、その行為に及ばずとも理解しているつもりである。このデジタル・データからモニター、あるいは紙媒体等にイメージが再生されるとき、イメージはアナログへと変容する。イメージを投影する個々のモニターの機種、解像度、縦横の比率、ブライトネス、コントラスト、カラーバランス等、環境がイメージの統一化を阻む。紙媒体への印刷にしてもモニターへの投影と同様のことが言える。
 デジタル・イメージの主経路になりつつあるネットワークを介して、作者のイメージをダイレクトで第三者の視覚に投射することは、ほとんど不可能なのではないか。デジタル・データから再生されるアナログ的なイメージは多様性、あるいは奇形性をもって、作者の意図と乖離して暴走を始める。


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